証し「主の招きの声に応えて」

主の招きを頂いて

                         九州バプテスト神学校 理事長 踊 一郎

                                    授業

1.最初の招き

主なる神はご自身の働きに人をお召しになりますが、その招き方はさまざまです。私が主イエス・キリストを信じてクリスチャンになったのは小学5年生でした。信仰の理解は十分ではありませんでしたが、主イエスに対する信頼は純粋だったと思います。父が牧師、母も祖父母も叔父叔母もクリスチャンという家族環境は、私に信仰への自然な促しを与えたのだと思います。  私が献身を最初に考えたのは、中学1年の時でした。私は関西・中四国地方連合の少年少女修養会で献身を決意しました。その時一緒に献身を表明した人の中に、一人の高校生がいました。彼も牧師の息子で、「一緒にイエス様のために頑張ろう」と声をかけてもらい、とても嬉しかったことを記憶しています。しかしそれから間もなく「ミノルシス」という電報を彼のお父様・松田正三牧師から受け取ったのです。手がぶるぶる震えました。後に分かったことですが、鉄材を2トン満載したトラックが彼の側を通りかかり、カーブを曲がり切れず、その鉄材が彼の上に落ちてきたのです。「一秒でもずれていたら彼は助かったのでは? どうして神は守ってくださらなかったのだろう?」 私には神のお考えが分からなくなりました。

2、聖書との出会い

私は次第に献身を考えることを避けるようになりました。牧師の仕事は苦労ばかりで、少しもいいことはないと思ったからです。信仰に対して懐疑的な時期でした。しかし神はなお私に対する招きをお捨てにならず、少しずつご計画を進めておられたのです。  その後大学受験に失敗し、京都の予備校に通うことになりました。私は聖書を持って行きたくなかったのですが、父は自分が訪問用に使っていた小型新約聖書を無理に私のバッグに押し込みました。それが聖書と真正面から向き合う転機となったのです。初めて親元を離れ、カーテンも電球もない予備校の寮で私は父の聖書を手に取り、マタイ福音書1章―イエス・キリストの系図―を読みました。いつもなら何も感じない箇所でしたが、その時は違いました。このたくさんの人々の中には今の私と同じように孤独で不安な人もいたのではないか、そう思うと急に聖書が自分に親しみのあるものに思えたのです。翌日から私は聖書を毎日読み、心に響く箇所に丁寧に線を引きました。一週間ほどして気づいたことですが、ほとんどのページに線が引かれていました。「この本は普通の本とは違う。自分にとってかけがえのない書物だ」と思ったのです。

3.二度目の招き

翌年の春、家庭の経済事情もあり私は地元の大学に入学しました。当時はマルクス経済学の盛んな時代で、私の大学でも多くの教授たちがマルクス経済学を講じていました。その講義で教えられたこともあります。人間が生きていくためには富や物が必要であり、それが一部の人に集中するのではなく多くの人に分配されるべきだというのは、正しいことと思えました。しかし父が牧師、自分自身クリスチャンである身にとって、「宗教はアヘンだ」「教会堂など今に倉庫になる」といった大学での宗教批判は辛いものでした。キリスト教とマルクス主義、両方の声を聞きながら私は大学3年になっていました。 その日の講義は午後からだったので、今治駅発午前10時頃の列車に乗って大学のある松山に向かいました。暖かい陽射しの差し込む車内で『マルクス経済学の方法』という本を読み始めましたが、うつらうつら居眠りを始めました。列車は3つ目の駅を出て4つ目の駅に向かう途中突然金属のきしむ嫌な音を立てながら急停車しました。車内が急に騒々しくなりました。乗客が窓を開けて外を見ます。私も窓を開けましたが、そこには何もありません。反対側の窓を開けました。そして小さな男の子の体を発見したのです。春の暖かさに誘われ線路を越えて畑に行きレンゲの花を積んでいたのでしょう。再び家に戻ろうとして列車に轢かれたのか、小さな遺体の周囲にはレンゲが散っていました。  列車の急停車に驚いて線路側の自動車修理工場の若い夫婦が飛んできました。機関士が「これはお宅のお子さんですか!」。若い夫婦は頷くばかりでした。母親は茫然とし、父親は多くの乗客の視線から愛するわが子を守るかのように、側に干してあったバスタオルをそっとかぶせました。  列車はわずか10分だけ停車し、若い両親とあの子を残して再び発車しました。車内はなお騒々しさが続いていました。学生たちはたった今目撃した出来事について語り合い、年配の女性たちは「どうしてあの子が死ななければいけないの?」と泣いていました。私は混乱状態でした。たった今幼い子どもの命を奪った車輪、その車輪の上に車体があり、その車体のシートに私が座っているのです。耐えられない気持ちでした。「車輪って何だ? 単なる物ではないか。大学では物の豊かさが人を幸福にすると言ったが、物が人の命を奪うこともあるのではないか」。その時でした、心の中に細い静かな声が聞こえてきたのは。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。主よ、その通りです。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(イザヤ6:8)。私はイザヤと同じように答えていました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」。こうして私は献身者の道を歩み出しました。  大学での学びを終え私は神学部に進み、牧師となりました。あれから46年経ちました。私は説教する時はいつも、若くして召された実さんとあの小さな男の子も一緒に講壇に立っている気持ちがするのです。

4.主イエスはいつも主権的な仕方で・・・

振り返ってみると、牧師としての働きを始めるという時心には不安がありました。「私は知恵も経験も足りない。こんな私に牧師の務めを果たすことができるだろうか」。しかし大切なのは、私自身の確かさではないのです。招きたもう主イエス・キリストの確かさなのです。「私は福音を語り続けることができるだろうか」。そんな私を支えたのは神学者カール・バルトの言葉でした。「教会の宣教の不幸、窮状、言語の混乱、無力さ、見渡す限りの不純な教えの海…。しかし人間的な失敗を主権的な仕方で生かす用いる神の成功、われわれが悪くすることを神は良くしたもう」。  当時神学部で教えてくださった中村和夫先生は、鹿島教会から就任記念に頂いた私の大型版聖書に次のように書いてくださいました。「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(テモテへの手紙Ⅱ 2:1)。  もし主イエス・キリストがあなたを召してくださったのなら、どうぞ主の招きの声を大切になさってください。そこから始まるのは祝福の人生です。

 

 

献身の証し

                           九州バプテスト神学校 校長 城前 和徳

                                      授業

 

 1945年2月14日青森県八戸市に生まれる。兄弟が多く、私自身一番下の九男として生まれた。両親は朝から晩まで田畑と野良仕事で、私ども兄弟、身の回りはすべて必然的に自らがしなければならないという環境にありました。 私が初めて教会(八戸バプテスト教会)の門を叩いたのは、高校3年に進級した春、友人に誘われてでした。生まれてはじめての経験でしたので、何か身の引き締まる思いがするのと同時に、讃美の美しさが今でも耳に残っています。ところが、数ヶ月しまして、牧師が辞任し無牧となりました。教会員(青年が中心)が当番制で牧師館に泊まって管理するようになり、なぜか教会員でもない私も少年少女会のメンバーとして関わりました。そのような中で、祈祷会の司会を頼まれました。断りましたが、どうしてもとの願いで引き受けざるをえませんでした。今、考えますと、良き機会が与えられたのではなかったのか思います。

 その後、東京での生活が始まり、教会へ足を向けることがなくなりました。サラリーマンになってからは、仕事そのものは自分に合っていたらしく、楽しく生甲斐のある生活でした。しかし、同時に何か足りない、どこか体の中を隙間風が吹いているような気持にかられることを禁じえませんでした。このような気持の中にあって、私は教会が改めて思い出され、本棚から聖書と讃美歌を取り出し、近くの恵泉バプテスト教会の門を叩いたのです。人生の方向転換の歩みが始まりました。

 私は教会生活をする中にあって、お客であるかぎりは、教会そのものが見えてこないのは勿論のこと、イエス・キリストとの関わりが希薄になるのではないかとの考えから、奉仕の場に積極的に参加しました。またこの時は、社会的には、靖国問題が教会の課題でもあり、活動が一段と激しくなっていた時でもありました。このような状況の只中にあって、私は信仰告白をし、バプテスマを受ける決心をしました。ペンテコステ主日礼拝においてバプテスマを受け、水から出るときにキリストに連なる責任と共に、心の中に喜びが湧き上がる体験をすることができました。

 私の教会(信仰)生活において、大きな影響を与えたのは靖国問題でした。一般社会においては、70年安保、大学紛争が真っ最中の時であり、教会においても、学生、青年を中心に揺れ動くと共に、教会の在りかたが問われた時代でもありました。私は、靖国問題と闘うのは、勝とか負けるとかを問うのではなく、キリストに生かされている私が、絶えず「主の日」の礼拝を中心にした教会生活をする中にあって、神が神として崇められていくことを主張して行くことにありました。

 このような闘いの中から、教会のサーキャプで、「創世記に聞く」の主題において、アブラハムの全き神への服従の在り方が示され、家庭会において、偶然にも私に聖書朗読の箇所が与えられたのは、出エジプト記4章10~12節でした。私はこの神の言葉が示されたとき、無能力な取るに足らない者でも、神の役に立つのならば、あなたの器として用いてください。と祈らざるを得ませんでした。私は献身の決意が与えられ、1976年2月教会員の前において公にすることができました。多くの方々が以前よりこのことのために祈っていてくださったことを後で知り、祈りの力を垣間見る思いがしました。と同時にこの教会員の祈りが私の牧会の基礎でもあります。

 

信仰決心と献身の証

                        九州バプテスト神学校 宣教センター委員長 松見 俊

                                      授業

 

 私は1947年6月18日、銀行員をしていた父と、母の第二子、長男として東京で生れました。小学3年生の時に、日本脳炎という大病を患ったことを除いては何不自由なく育ちました。中学受験に失敗したことに懲りて、大学のある私立高校に進学したこともあり、大学受験勉強をしなくて済んだので1年間100冊を目指して多くの小説を読みました。西欧の小説には聖書の引用やキリスト教信仰が登場します。人生に一度くらい聖書を読んでも損はないだろうという乗りで高2から3年になる春休みに書店で旧約聖書を買い、読み始めました。新約聖書は我が家にあったので、3,4ヶ月で聖書を読み終わりました。聖書はどのような小説よりも、人間の罪深さをリアルに描いていること、それにもかかわらず人を愛する神の忍耐に心動かされ、神を信じるようになりました。夏休み明けに、クラスに一人いたクリスチャンに「わたしはクリスチャンになった」というと「証拠を見せろ」と言われました。証拠とは教会で洗礼を受けることだということでした。お安い御用だと思い、人生初めて、日本バプテスト連盟の仙川キリスト教会に出席しました。高校の図書館にあった『キリスト教大事典』でバプテストという教派に魅力を感じ、バプテストになりたいと思いました。調布市の実家から徒歩で15分ほどの処にある教会が丁度バプテスト教会でした。「おはようございます!バプテスマをして下さい」と挨拶しました。教会としては奇妙な若者だと思ったことでしょう。17歳、18歳という年頃は、将来自分はどのような仕事をするのか、それ以前に自分はどこから来て、どこに行くのか、運命的でもあり、また、選択の自由が与えられているようにも思える「時間」とは何なのかなどと漠然と考え、また、隣人愛どころかすぐ下の弟を好きになれない自分にも嫌気がさしていたのでした。後から考えると祖母の時代に日本基督教団牧師の米田武男先生が松見の家族に関わり、祈っていて下さったこと、両親は意識していなかったと思いますが園長夫妻がクリスチャンの幼稚園に通っていたことも影響していたのかも知れません。3ヶ月間くらい野村義雄先生に信仰の基礎教育、バプテスマクラスをしていただき、一緒に訪問伝道をしていました。教会学校の奉仕もバプテスマ以前から助手として関わらせていただきました。新小岩教会の牧師立石卯一郎先生の特伝で決心したことになり、1965年11月28日にバプテスマを受けました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)や「朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)などが心に残りました。生きる意味、生き方の規準を求めていたのでした。 しかし、バプテスマを受けてから魂の格闘が始まりました。キリスト者になったらもう少しましな人間になれると思っていたのですが、今まで罪とは思っていなかったことまで罪と感じるようになり、息苦しくなりました。その格闘の中から、服従の対象であったイエス様が無条件で一方的に私を愛しておられることを示されました。その後もいろいろ葛藤はありましたが、最初に教会を訪問した日曜日から週3回、水曜日の祈祷会、土曜日の夕拝、日曜日の主日礼拝に欠かさず出席してきました。  キリスト者となったので、何か人の役に立つ仕事、いのちに関わる仕事をしたいと考え、学校の教師になろうとも思っていましたが、大学入学の際は将来の献身も考え、理系ではなく政治経済学部を選び、神学書を読むためにもドイツ語を第一外国語に選択しました。大学1年の頃、休暇から帰国したアスキュー宣教師が度々伝道者・牧師への献身を促す説教をされました。牧師になりたいと思っていても、いざ具体的に招きに会うと、将来、イエス様を裏切るかもしれないという自分の弱さを思い躊躇していました。ある日曜日献身への招きがあり、それに応答できずにいるとまた、同じ週の夕拝で献身への招きがありました。決心がつかずに翌日の説教題が書かれてある看板を見ると、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:37)とあります。また、招きがありそうだ!しつこいなあ!と思いました。このように献身決意に躊躇している以上を、一年先輩の男子青年に話、執り成しの祈りをリクエストしておきました。どうしても招きに応えて講壇の前に出て行けない自分を考えた時、「そうだ、今回は祈られているのだ」と考え、献身の決心がつきました。その時、「教会」ということが多少分かったのでしょう。それに、収穫が多く、猫の手も借りたいくらいなら、猫よりもましかな(猫ちゃんに申し訳ない!)と少し楽にもなりました。その日から、仙川教会の献身者と証人されました。ノンクリスチャンの両親はかなりショックでしたが、父が大学卒業まで意思が変わらなければ仕方ないと言ってくれたので、即座に大学を中退して神学校に入学せず、大学卒業まで伸ばすことにしました。そこで、教会の謄写版で証を印刷してバスの中で配布したり、毎日大学の本館屋上から昼休み即興説教をしたり、駅前で、一人で路傍伝道をしたりしており、今でもその残り火が燃えていますが、「気が狂ったように」伝道?に励みました。時代は大学闘争真っ最中で、大学広場では全共闘のマイクでの演説を聞きながら、屋上から地声で毎日の説教という日々でした。バプテスマ決心者も何人か与えられました。その後、65歳の定年を迎えた学友が、「松見はいまでもまだやっているのか!」と言うメールをくれたので、「いまでもやっているよ!」と答えています。大学卒業後はすぐ西南学院大学神学部に編入学し、卒業後は途中、3年半、そして、2年間の神学研鑽のための留学期間はありましたが、イエス様一筋に今までやってきました。学生アルバイトはいろいろやりましたが…、伝道で食えなかったら死のうと考えていました。このような経歴ですので、最初は自分が決心し、自分が選んだ道であると考えていましたが、最近は、教会に祈られ、支えられてきたこと、神様の選びが常に先行していたことを実感しています。聖書も自分が読む前に翻訳のため人生を捧げられた多くの人々がいることに気が付かされました。そして、今から考えると、少しは横道に逸れて違う人生経験もしたかった!と、我が儘な想いもないわけではありません。途中で主イエスを裏切るかもしれないという恐怖感が献身を躊躇させていましたが、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。ここまで先回りして祈られ、躓くことさえ、兄弟を励ますために用いられるなら、もう言い訳はできないと思いました。ペトロにはペトロの道があり、ユダにはユダ働きがある。ユダならユダで良いではないかと開き直れたのが良かったかも知れません。55年間、イエス様一筋の道に見えるかも知れませんが、ずぅ~と裏切りの日々だったのかも知れない!とも思います。職業上は牧師・神学者でも献身していない時もあるし、牧師ではなくとも、信徒の方がずぅ~と献身しているなあと考えることも多いです。  こんな人間が九州バプテスト神学校で教えたり、宣教センターで奉仕をしているので、皆さん、がっかりせずに、安心して神学の勉強をして下さい! あなたも収穫の主に招かれています。祈りつつ。